その小さな猿は200年を生きていた。
生茂った深い森の中で気侭に暮らしていたのだ。
彼は生来未来を見る事が出来たので本来在るべき全ての災厄からいとも簡単に逃れる事が出来た。
そんな事が出来るのは何千匹も居る一族の中でも彼だけだったが
彼はその能力故に疎まれる存在であり常に孤独だった。
だがそれも200年も生きると実にどうでも良い事であり
彼はその特出した能力を気侭に行使して暮らしていた。
その力をもってヒトの世界にも入り込み、
ヒトの仕掛けた罠や飼われている家畜を含め多くの動物達を逃がしたが
所詮それは只の気まぐれで罠を壊されて悔しがるヒトの様子が面白かったからにすぎなかった。
もともと同族だけではなくあらゆる森に住む生き物が彼の気侭さに愛想をつかしていたし
ケージから放された家畜達の殆どは自然の世界で生きて行ける程強くはなく
大半がより強力な動物に食べられてしまうだけだった。
神出鬼没で捕らえることのでき無いこの厄介な猿を村人達は 夜 と呼びいつか恐れるようになっていた。
だが ある時遠い北の国からきた年老いた女性の学者に彼は夢中になったのだ。
それは人と人との関係であれば恋と呼んでもいい感情だったが
愛する事も愛される事もなかった彼にそれを理解する事は出来なかった。
彼はやがて研究室にも忍び込むようになり彼女も彼の存在を認識するようになっていた。
彼女は夜になると訪れる彼に村人からならった呼び名を自身の母国語になおしNocと呼んでいた。
彼もそれを認め始めてNocという名前を持った。
Nocと彼女が一緒に暮らすようになるのにそう時間はかからなかった。
2人はとても仲のいい友人として暮らしていたが、
その事自体が村人達には理解しがたいことだったし
だからといってNocに対しての恐怖や怒りが収まる筈もなかった。
そもそもその女性の学者の研究自体が突飛も無い物で村人達の理解を超えていたのだ。
彼女の研究は時間に干渉することであり元々この村に来たのもNocの噂を聞いたからでもあった。
噂では森林の中で200年以上生きた猿が
あらゆるヒトの仕掛けた狡猾な罠を見破り村人達を翻弄し手を焼かせているということだった。
彼女はそれを母国の大学で発行されていた自然科学の分野の機関誌の記事で知ったのだ。
この記事から彼女は200年という途方もない時間を生きているという事実と
あらゆる罠を避け得るということから
この猿がなんらかのカタチで時間に関与している可能性があると考えたのだ。
それで村の中の一番森に近い場所に住居を作り
そこで暮らしていたらどういう風の吹きまわしかNocのほうから近寄って来たのだ。
きっと 何処かで言葉では説明出来ないなにかががお互いを引き合ったのかもしれない。
そう彼女は考えていたが今や家族となったNocを実験材料にする気にはなれず
ただ彼との意思の疎通を図りより彼を理解しようと努めていた。
声帯の構造にムリがあって喋るようにはなれなかったが
それでもNocは彼女の言う事を理解できるようになり
彼女もNocの意思や感情を理解出来るようになっていた。
Nocは相変わらず我が侭で勝手気侭に暮らしていたが
彼女にだけは敬意を払い彼女の意思と考えを尊重していた。
200年という時はそれでも大切な人間と折り合いを付ける事が出来る程度の
必要最低限なシンパシーをNocに与えていたのだ。
だが村人達のNocに対する怒りや恐怖は変る事が無く
異邦人でもあった彼女もやがて村のシャーマンと些細な事対立してからは
段々と疎まれるようになり魔女として誹られるようになっていった。
村人が彼女に食料を売らなくなり
その為にNocが食料を盗むようになったことが更にそれに拍車をかけたのだ。
そして彼女の本国が隣の大国に侵略され本国からの彼女への支援も潰えた時に
村人達との関係は断絶し彼女は森林の中でNocと2人だけで暮らすようになったのだ。
帰るべき場所を失い同時にここに在るべき理由も明確でない状況で日々の食事にも事欠く毎日だった。
やがて時間がゆっくりと彼女の精神を蝕み始めていた。
村人達もシャーマンも彼女の事をかつての賓客ではなくNocと同等の厄介者と考え
魔女として焼き払おうとしていた矢先に彼女の国を侵略した軍隊が
彼女を捜しにやってきて村を占拠してしまった。
彼らは彼女が所属していた大学を自分たちの都合で作り替えようとしている最中に
資料を見つけ彼女の研究そのものに興味を持ったのだ。
彼女は森林から引き出され話し合いという尋問にかけられ研究の継続を要求された
それは未来を予見出来る方法を構築する事だった
それ自体は元々の彼女の研究領分であったし
Noc自体が未来を予見出来Nocの観察と対話による研究で
それなりの結果は出せそうだったが彼女は彼らに協力する事がなによりも嫌だった
自分の故郷を焼き家族や友人の多くを殺した彼らの手先に等断固としてなりたくなかったからだ。
だが、村を占拠した軍隊は出来なければ村を焼き払うと言い
彼女の目の前でシャーマンを射殺してしまった。
彼女は非常に動揺し苦しんだがそれでも自身の研究を彼らに渡すことはなかった。
彼らに研究を渡せばもっと多くの人々が大変な不幸に見舞われる事を彼女は理解していたかからだ。
だがNocにはそんな事は理解出来なかったし理解出来たとしてもどうでもいい事だっただろう。
彼は200年もの間ずっと孤独だったし、その孤独から救ってくれた彼女を
異邦人の軍隊が苦しめる事等到底容認出来ない事だったからだ。
Nocはすすんで彼らの元に現れ彼らの実験の為の材料になった
彼らは直ぐにNocの足を切り離し逃げられないようにすると
そのまま複雑で不格好な機械の中に埋め込んでしまった
彼女がその事を知った時はもうなにもかもが手遅れだったのだ
Nocの身体はあちこちが切り離されて機械と融合されていたので
もうどうやっても元通りにする事など出来なかったのだ
彼女は嘆き悔やんだがもうどうすることもできなかった
唯一の救いは機械に繋がれた事でNocの意思や感情が以前より明確にわかるようになったことくらいだった。
結果としてだが彼女は自らがあれほど拒否していた人間達に協力する事になっていた。
だがそうする以外にNocと同じ時間を過ごす事も
またこれ以上切り刻まれる事を止めさせる為にも他に道はなかったのだ。
でも Nocは悲しんでいなかった
彼にははじめからこうなることはわかっていたからだ
これは彼女と生きて行くうえで避けがたい未来であって
これ以外に選択する道などなかったからだ
彼は今迄全ての未来を自身の欲求に従って変えていたわけで
それは本来あるべき未来と向き合わずに生きて行く事でもあった
不都合な未来は回避して都合の良い現実だけを選択するという事は
本来あるべき運命と対峙しないと言う事でもあり
それが彼の運命や未来を曖昧にしていたとも言えるだろう
未来は現在の行為によって決定されるものであり
運命とはそれによってもたらされる結果に過ぎないからだ。
Nocが不死であることもそういったことが少なからず関係しているのではないかと彼女は考えていた。
彼は死なないのではなくてそれ故に死ねないのではないかと。
本来あるべき生物としての生を全うしていないと言う事は
始めから死んでいるのと変らないのではないかと。
未来を知ると言う事はとても簡単に可能性を否定する事にもつながるのだ。
それは非常に楽な生き方だがあるべき変化や進化に必要な情報も得る事が出来ない、
それ故死ぬという区切りの中に入れないのではないかと。
Nocが残酷な未来を回避せず受け入れたのは
一番大切な事は自分たちのどちらかの命が尽きる迄を共にいることで
それ以外の事はもう二人にとってそんなに大きな意味を持っていなかったからだ。
Nocは初めて自身の未来と対峙したのだ。
Nocは問われるがままに未来を見せてやった。
ただその未来を決して変えさせなかった。
それは変えた時点で本来在るべき予言ではなくなるからだ。
未来を変える事は彼らと彼らの軍隊と彼らの信奉する総統に良からぬ影響を与え
確定していない未来へ向かう事は現在の状況と自身の存在さえ
曖昧で不確定なものにしてしまうからと彼女に説明させた。
それは半ば事実であったしNocが不死であるのも彼自身が確定しない時間にいたからだったが
それを知られると彼らは積極的に未来に介入し結果として不死の軍隊になってしまう可能性が高かった
その為にNocは彼らの時間に介入し未来を決して変えさせなかったのだ
それには膨大な力を必要としてNocはその代償として
自身の残された僅かな肉体を溶かしてしまうことになったがそれでも彼は介入を止めなかった
それは彼女の願いがより多くの人達を不幸にしないことでそれを叶えてやりたかったからだ
2年と言う時間が経過しNocの身体の大半が溶けて消えた頃
戦争は彼らの敗戦で終わり、軍隊はなにもかもを廃棄して敗残兵として祖国へ引き上げて行った
彼らが来た大陸は瓦礫の山と化し多くの死が世界を覆っていたが
それでもようやく戦争は終わったのだ
それは結果としてNocの見た未来と同じだった。
その未来が見えたからこそNocは自ら彼らの元に自身を引き渡したのであり
その未来を変えさせない為に身体を切り刻ませたのだ
未来を変えさせない為にはかつて村人の仕掛けた罠を壊す程度の力では対抗出来ず
強大な力が必要でその為にも自身が機械と一体化して未来に介入する必要があったからだ。
なにもかもが終わりNocもはじめて未来を受け入れた事で彼の時間はようやく動き始めた
Nocの時間は本当ならもうとうの昔に終わっていたはずのものだったのだ。
彼にもようやく迎えるべき死が訪れたのだ
彼女もそれは理解出来ていたのでとても悲しく辛い事だったが
もう受け入れられない現実ではなかった
むしろNocが未来を変えさせない為に自身の身体を溶かしながら闘っている姿を
見守らなければならないほうが、ずっと辛くて苦しい日々だったので
それから解放されるNocを看取ることが出来る方がまだ幸福だったのだ。
軍隊が引き上げ村にも平和が戻り彼女が見守る中でNocの命の火はゆっくりと消えて行った。
役目を終えたNocを彼女が大きな機械から切り離したからだ。
軍隊がいなくなったことでもうその機械の為に必要な電力を供給出来るシステムが村にはなかったし
なによりNocが強くそう望んだのだ。
Nocは充分な時間を生きたし最後の時間を彼女の為に使えてそれがとても幸福だったのだ。
だからどのみち潰える命であるなら彼女の手で終わりにしてほしかったのだ。
Nocは機械から外されてもそのままだったが
少しだけ手が動いてそれからなにもかもが止まるのがわかった。
彼女は長い間泣き続けていたが残された研究資料や機材を焼き捨てると
Nocの躯をもって故郷への長い旅路についた。
Nocは残された村人達に神として祀られる事になったがそれは彼の望む事ではなかっただろう。
彼は夜がそこにあるように村人達の傍らにいただけで
最後の最後迄気侭に暮らしていただけのことなのだ。